我々は何から手を付けるべきか

TL;DR

  • 須田の自慰ポエム
  • プロダクトやプロジェクトの意義を忘れないようにしたいよね
  • たとえコストが高くても、コア機能から実装していきたいよね

本文

最近、大学の主専攻実験のチームやプライベートで組んでいるチーム、バイト、あるいは個人で様々なプロダクトやプロジェクトに携わるようになってきた。それらの多くはまだこの世に存在しないものを自分たちで生み出していくようなプロダクトやプロジェクトである。そういった企画たちに携わっていく中で、「我々は何から手を付けるべきか」ということを考えるようになった。日記ついでに文章にまとめておく。

結論から言えば、何か企画を始めるにあたってまず手を付けるべきことは、「この企画はいったいどんな熱量を持っており、我々はこの企画の何に惹かれて集まったのか」をメンバー全員で確認するということである。自分たちが今まさに始めようとしている企画は自分たちや自分たちの周りをどう変えるのか、自分はこの企画が実現すれば何が嬉しいのかを確実に明確にし、忘れぬようにする必要がある。

企画が上手くいかず、志半ばで挫折せざるを得ない場面は多い。その原因は様々である。資金の不足、人員の不足、ライバル企画の存在……数多くの原因が考えられるが、僕が最も恐れる挫折の原因は「飽き」である。

人間は思いのほか飽きやすい。刺激が無くなれば一瞬で人間は飽きていく。ほとんどの企画は、飽きられた瞬間終了する。飽きるのは企画を提供される側だけではない。企画を提供する側、すなわちここで言う「我々」も、「人間は飽きる」という運命から簡単には逃れることはできない。

人間を飽きさせないためには刺激が必要である。企画における刺激とは、企画そのものが持つ熱量に他ならない。企画を提供する我々は、企画自身が持つ熱量を常に外部に提供し続けなければならない。刺激の供給が企画の被提供者を飽きさせないために必要であるのは言うまでもないが、刺激の供給は企画の提供者である我々を飽きさせないためにも必要である。企画の持つ熱量を適切に扱っている間は、我々は決して飽きることはない。

その形式は企画の種類によって様々であるが、企画にはリリースがある。リリースとは、我々が準備してきた企画を外部に公開することである。例えば企画がサービスの開発であればまさに言葉そのままの意味のリリースであり、イベントの企画であればイベントの開催がリリースに当たる。

我々はリリースに際し、その時点で我々が提供できる「企画の最も味の濃い部分」を提供しなければならない。我々がリリースに際して考えるべきことは「今回の我々のリリースは企画の持つ熱量を全力で伝えられているのだろうか」という一点に限る。「この部分は実現が簡単だからリリースしてしまおう」などといったことは考えてはいけない。そんなことをしてしまえば、人は一瞬で飽きる。飽きられた企画の再起は容易ではない。

例えば Twitter を開発することを考えてみよう。Twitter を完成させるためには、やらなければいけないことが山のようにある。ユーザの認証が必要である。クールで素敵な UI デザインも必要だろう。ダイレクトメッセージも欲しいところだ。さて、我々は何から手を付けるべきだろう?お察しのとおり、我々は今挙げたいずれの機能の実装も初めに手を付けるべきでは無い。Twitter のコアは「誰もが気軽に思ったことを投稿できる」という部分にある。これを実現するのは非常に簡単である。web ページを 1 枚作り、ど真ん中にテキストの入力欄を配置するだけで良い。これで「企画の最も味の濃い部分」の実装は完了した。さて、次に味の濃い部分はなんだろう?せっかく投稿したのだから、投稿された文章はぜひとも見たいところだ。では、投稿された文章を全てページ上に掲出するようにしよう。これもまた、その時点での「企画の最も味の濃い部分」の実装である。この時点ではクールな UI はおろか、ユーザの概念すらない。だが不思議なことに、 Twitter の面白さを最低限理解できる企画になっている。これは確実に Twitter のコア機能、「Twitter の持つ熱量」を実装できているからである。

我々は企画の被提供者を飽きさせないため、そして我々自身が飽きないために、刺激的なリリースを出し続ける必要がある。そのためには、企画の提供者である我々が企画が持つ熱量を決して忘れないことが必要である。そして、今我々が提供できる「企画の最も味の濃い部分は何なのか」を常に考え、実装し続ける必要がある。熱量の低い部分の実装はひとまず後にしとにかく熱量を追い求め続ける姿勢こそが企画を成功させるのではないかと、僕は思う。